ウィークリーマンション 大阪のエッセンス
ヌ一ドルでも安い串を大衆に提供し、自動車を普及させようとする信念だった。
フードは、その高額の特許料にはげしい怒りを感じていた。
当然、フードは多決着は、一九十年についた。
フードの勝訴であった。
これは、まさに自動車にたいする愛情と執念の勝利であった。
ただし、ここで決着のつかない問題が発生した。
GMをはじめとする妥協派との対立であった。
こうしてセルデン特許問題はフードとGMとの対立を浮き彫りにした。
自動車という商品にたいする発想のちがいである。
金を払っても早く解決に持ち込みたい包括型GMと、不当な利益をむさぼる悪徳弁護士に一矢報いんとする野武士フードとの生き方のちがいであった。
このちがいは、その後、企業文化の差に発展し、一〇〇年近くたった現在でもまだ連綿とつづいている。
紳士企業GM、野武士フードと直感したのは、こういう伝統的背景があったからかもしれないと感じたのは、だいぶあとのことであった。
この差は、創業時代の海外戦略にも、明らかにおくれている。
GM誕生の年、フードはT型フードを発売、たちまち大ヒットとなった。
そこでフードは、このベストセラーカーをイギリスに輸出、そこでも大成功をおさめると、現地生産をするため、一九十年、フード自動車会社(イギリス)を設立した。
その株は、全株フード本社の株主が保有したが、同時に二〇〇株が額面五ポンドで発行され、フード個人が十七株所有した。
結果的に、フード個人はイギリス現地法人(通称イギリス・フード)の株式五四・六%を所有してスターした。
この成功に自信をつけたフードは、二五年、今度はドイツにフード自動車会社(ドイツ)を設立した。
この会社もイギリス同様、親会社の完全支配下にあった。
その年、GMはフードのあとを追う形で、イギリスのボグゾトルを買収して、「小さな生産拠点」を設けた。
フードに遅れること五年である。
さらに、二九年にドイツのA・オペルの株式八〇%を買収したのである。
「小さな生産拠点」とは、GM中興の祖といわれたA・P・スローンがその著『GMとともに』で述べている現である。
いかにもGMらしい。
ここで注目すべきことは、両社のイギリスとドイツへの進出形態である。
フードは、ほぼ一〇〇%出資してみずからの子会社を完全掌握した。
GMは、すでにでき上がっていた地元の企業を買収して、みずからの子会社とした。
株式は八〇%を所有し、経営権を掌握したもののへ一〇〇%子会社ではなかった。
いや、会社の形態ばかりではない。
イギリス・フードの主力工場ダーゲナム工場に取材したとき、私はデロイの主力工場リバー・ルージュ工場で取材しているのではないかと錯覚して、驚いたことがある。
工場がともに大河に沿って建設され、用地内には鉄道引込線が縦横に走っていたからである。
これは、工場は「水」の近くに、という創業者H・フードの哲学ゆえだった。
物流を重視していた彼のこだわりであった。
リバー・ルージュ(ルージュ川)工場が、その名の通りだった。
ダーゲナム工場もテムズ川に隣接していた。
その港湾設備は当時二九七〇年代初)、一万五〇〇〇ンの貨物船が横づけでき、民間用としてはイギリス最大であった。
関東大震災二九二三年)のあと、日本に工場進出したとき、その拠点は神奈川県の新子安だった。
この工場(戦前)も、まさしく海側であった。
つまり、フードはデロイト拠点とまったく同じ思想で、この英、狙、日の子会社をつつた。
本社統括主義をつらぬいた。
それはたとえば本田技研がアメリカ(オハイオ)工場に進出するとき、本田宗一郎社長のドイツ人入植地であることを、一候補地に選んでいた。
オハイオの組立て工場もアンナのエンジン工場もそうだった。
創業者精神というものは、そういうものかもしれない。
一方GMも、これまで拡大をつづけてきた既存企業買収戦術を英、独でつらぬいた。
ただし、フードと決定的にちがうことは、その子会社にたいして現地尊重主義をとったことだった。
一九八〇年後半、ドイツ・リユツセルスハイムにあるオペルの旧本社ビルに取材した。
まず、ホールに通された。
そこでみたのが、会社案内をかねたPRビデオだった。
オープニングは、ベートーベンの「運命」であった。
このビデオで気がついたことは、ここにアメリカ資本の匂いは、なにもなかったことだ。
それだけではない。
オペルがアメリカ企業GMの一〇〇%子会社であるという解説は、ひとことも出てこなかった。
ビデオ終了後、私は広報担当者に聞いてみた。
「オペルの解説のなかに、GMのジの字もなかったじゃないですか。
説明不足ではありませんか」。
それにたいして、彼は答えた。
「いえ、なまじGMの名を入れると、見学者が混乱するものですから。
最初にべ1ベンをもってきたのも、ドイツ企業だということを強調したかったからです」。
これは、オペル側も現地尊重主義を享受している証左である。
本社統括主義と現地尊重主義この差も、個人が創業した会社(フード)と、拡大こそ企業発展の基盤としてきた会社が引きずる原体験の、決定的な差なのである。
以上は、アメリカ自動車産業の両巨頭にみる経営体質の差である。
それは、本章の冒頭に掲げたA群企業とB群企業にも、かなりのていどまであてはまっていくと思う。
この個性は、一〇〇年近くたった現代でも、脈々と流れている。
どちらがいいとか悪いというわけではない。
会社が背負ってきた宿命みたいなものだから、どうしようもない。
好みのちがいはあるが、絶対的な善し悪しではない。
ただ、その特徴を今後どのように活かすかによって、企業の明日が決定づけられているということは、肝に銘じてお必要はある。
企業は、日本語では「法人」と呼ばれる。
その「人」の字は、また「人間」の「人」でもあり、「人格」の「人」である。
その「人となり」には、さからえないものがある。
というより、みずからの歴史と伝統を活かしてへその長所を伸ばすことが、企業の個性を育成することになる。
それによって、経営戦略が勝利をおさめうるのである。
いま梅型企業の特性をもつ日本企業のなかで、世界の桜型企業からきわめて高く評価されている企業がある。
アメリカの典型的桜型企業GMが評価する日本の超梅型企業スズキである。
両社の深い関係は、一九八六年、カナダにつつた合弁会社。
それ以前、八一年から資本・業務提携していたが、GMが本格的にスズキの経営体質に注目しはじめたのは、OIS以降だった。
ここでは、GMは主として用地の手配、従業員の調達、組合間題を担当するが、生産管理をはじめへ工場運営はすべてスズキの分担であった。
この実績から、GMは九八年九月、スズキの持ち株を一〇%強に増やした。
その背景とねらいは十章で詳しくふれている。
ところが、その会社が日本の典型的超梅型企業であること、だからこそGMが高く評価している点などについては、意外に知られていない。
これはある意味で、日本企業のもつ経営の知恵なのかもしれない。
前身は鈴木式織機製作所(創業者鈴木道雄)で、創業年は一九〇九年(明治四二年)だった。
GM創設の翌年である。
この年、繊維業界では生糸の輸出量が中国を抜いて世界一となり、綿布は輸出額が輸入額を上回った。
ただし、国内は生産過剰になり、紡連(大日本綿糸紡績同業連合会)はその年、五回目の操短にはいっている。
三年前に創立された豊田式織機も、この年は大幅減益になった。
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